賽ノ河原ブログ

日本語ラップと映画の話を淡々としています

カブトムシにマヨネーズと8mile

カブトムシにマヨネーズかけて死んだら誰か深読みしてくれっかなぁ、特に意味は無いんだ。

意味深な歯軋りをしてはカブトムシにマヨネーズかけて死んだら誰か深読みしてくれっかなぁ、特に意味は無いんだ。

 

それは正論だけどお前が言うなってつまんねぇ不完全燃焼の上にも廊下を走るなって言葉は一生この先、役には立たないな。

「芸術家になりたい」カブトムシにマヨネーズかけて「これはアートだ」とドヤ顔してからガン飛ばそう。

*1

 

ハハノシキュウのリリックは難しいと感じてしまう事がある。何も考えず、ただ音楽を再生すると、リリックの意味の前に、韻の連続性を優先してしまい、意味が分断されて頭の中で分離した言葉の断片だけ妙に突き刺さる事があって、全体像と本質が掴めず、どこまでも抽象が薄まらなくて、霧の中にいるような気持ちになる。そのせいで、何度も繰り返す言葉はやたらと前に出てくるときがある。きっとフックを攻性防壁にしてゴーストハックを防いでるんだと思って聞いていた。なんならDCミニあたりで、強制的に夢に介入してしまえば良いんだと非現実的な逃避をしていたが、最近は、新しい曲を聞くたび、介入できるのに夢そのものに踊らされてるような気がしてしまう。誰かを身代わり人形にして踊らせてみたら客観的に見て、その言葉の本質にたどり着けるんだろうか。

 

誰にでも相応なリアルがある。

 

まるで、長い長い殺風景な病院の廊下を何人もの人が診察待ちの列に並んでいて、それでいてそれが先頭に辿り着けば、再検査を言い渡され、最後尾に並ばされ続けるような日常を繰り返し、繰り返し、延々と続く。もしかすると、それは病院でもなく、黒い煙のあがる巨大煙突を天に伸ばす工場の一区画でしかなく、不良品にもなれず、検品を繰り返している歯車の一部みたいなのかもしれない。要はどこだかもよくわからない実感の無い現実に閉じ込められている。そんな生き方は漠然と存在している。

 

そのリアルが壁に囲まれているような現状が唯一、活きる瞬間があるとしたら、こうして文章を書いているときなのかもしれない。そう思っているかもしれない。凡愚の生き方に糞の足しほどの文才で取り繕っている。生き急ぐこともないけれど、感情が無くなってしまいそうだ。 

 

中村みうが3Pをしたらしい

なのになんとも思わない僕は世界に対してインポテンツで満員電車の無表情を思う

どうしてこんなにも気持ちが乾く

裸電球に服を抱きしめて壊れる

自分の血液をローションにしてさ

凹凸のないコウコツを擦り合わせて子どもを作ろうとする

どうしてこんなにも血液が乾く

裸電球の破片がアツレキに刺さる刺さり続ける

卒業アルバムで一番かわいい女の子の笑顔に

ザーメンじゃなくて真っ赤な血を塗りたくって今日もメランコリー

*2

 

きっと日々を繰り返す毎に緩やかに失望している心がある。ただ、それが、急転直下せず、済んでいるのは、何かやっていると言い聞かせているからなのかもしれない。それが、良いのか悪いのかわからない。真綿で首を絞めるようにゆっくりと気力が奪われていくのに対して悪あがきしているのかもしれない。だんだん前向きに書くのを止めてしまった文章の先には、後ろに何がある訳でもないのに、振り向いてしまった愚か者の軌跡がある。それで塩の柱にでもなったら誰かそこに真っ当な人生を加筆しておいてくれるんだろうか。

 

これは悪あがきなのだともう一度言い聞かす。

 

このあいだ、ようやくまともに8mileを観た。なんだかんだ、ラッパーの自伝的映画はあまり観ないでいた。自分とかけ離れ過ぎたリアルを観てもきっと理解出来ないような気がしていたからだ。なんで観ようと思ったかといえば、これが、実話をもとにしたフィクションだと知ったからだった。だったら、最初から何も臆する必要なんてなく、気兼ね無く観たらいいじゃないかと思った。そもそも、脚色してあるのだから、私のような半端者でも理解出来るように作られているはずである。そして、今ならせめて物語の中のエミネムに感情移入は出来るんじゃないかと、多少、自分の程度に期待していた。

 

Well,Jimmy moved in witi his mother

'Cause he ain't got no place to go

ついにジミーは出戻り 頼るはママひとり

 

Now I'm right back in the gutter

With a garbage bag that's full of clothes

住む場所は掃き溜め 手に抱えるはゴミ袋だけ

 

You live at home in a trailes

お前のすみかはトレーラー

 

What the hell you gonna da?

これからどうすんだ?

 

'Cause I live at home in a trailer

俺のすみかはトレーラー

 

Mom,I'm coming home to you

ママの元へ帰ったんだ

 

Break it down

 

My name is Jimmy,his name's Greg Buehl

俺はジミー 奴はグレッグ・ビュール

 

Me,him and you we went to the same school

俺たちは同じハイスクール

 

This ain't cool I'm in a rage

マジサイテー マジムカつく

 

He's tappin' my mom

We're almost the same age

上級生がお袋とセックス

 

On the microphone I drop bombs

いいか、よく聞いとけよ

 

Look at this car! Thanks a lot, Mom

こんな車をありがとよ

 

"Here,happy birthday, Rabbit

"Here's a brand new car, you can have it!"

"誕生祝いよ ラビット ステキな新車をどうぞ"と

 

A 1928 Delte

1928年型デルタ

 

This shit won't even get me to The Shelter

これじゃ行けねぇシェルター

 

And I can't even say I'm from Motown

デトロイトから都落ち

 

'Cause I'm back in the 810 now

ここは市街局番810だ

 

'Cause I live at home in a trailer

俺のすみかはトレーラー

 

Mom,I'm coming home to you

ママの元へ帰ったんだ

 

*3

 

ジミー、またの名をラッパーのB.ラビットの生活は生きているだけでマシと思える環境で生きていた。これは、そんな環境を彼の仲間のフューチャーと共に、母親からプレゼントされた廃車寸前の車を修理している最中、二人でフリースタイルに興じているシーンだった。

どれだけ嘆いたって、ラビットにあるラップのスキルは抜きんでていた。自身の環境を自嘲気味にラップするのその姿ですらスキルフルである。

繰り返すだけの日常に翻弄される生き方とは違うそれは、本当に主人公らしい生き方だった。

環境も立場も何もかもヒップホップによって一変させるある種ラッパーとしての手本のような生き方をまざまざと見せつけるみたいだった。

人間という点だけしか共通点があるようにしか思えない。その生き方を手本にして、自らの8mileを語れる人間はごく少数で、気づけば、スタンドアローンコンプレックスにでも陥ってしまうのが関の山だってひねくれて考えてしまう。

例えば、背景はデトロイトじゃなくて、それを" 東京"にして、小規模な8mileごっこを成り立たせようとする。主人公はエミネムになれないエミネムだ。そんなことを考えながら、感情移入させて映画を見ているのかもしれない。

 

「死のうと思えばいつでも死ねる」なんて思いながら今日まで生きる。

どうせ無になる責任だったら最初から無責任でいる方がマシだ。

*4

 

「東京」はそんな冒頭から始まっていた。ラビットには明確な目標があった。自分の力で8mileを越えていくことだ。その姿を追っていくなら、誰しも繰り返しの続く人々にとっての掃きだめを自分の力でまたいで行かないといけなくなる。自分の武器が何なのかもわからずに、そうするなら、ただ振り回すだけで空回りするバットのようだ。頭の中だけではどうにかなるなんて思っているのなら、三振してバッター交代がいいところだ。

仮にサッカーなら、無計画が目的を先延ばしにして、遠くなるゴールに向かってドリブルをしているだけで、一向に蹴りだそうとしない厄介なプレイヤーである。シュートせず頑なにボールは保持しているだけだ。そもそもプレイヤーなんだろうか?サッカー部ですらないし、入部届けも出していない。立派なプレイヤーを見て「サッカー部を皆殺しに」をBGMにしたらよさそうだと思った。

 

これは疎外感の歌だ。

*5

 

その言葉で溜飲を下げる。カブトムシにマヨネーズをかけ続ける。

嫌いなブロッコリーにもマヨネーズをかけた。おいしくなかった。

現実にマヨネーズをかけた。ますます嫌いになった。

それでも片手にマヨネーズを持っていて保険をかけている。

もしかしたら、食べられるんじゃないかという希望的観測がそうさせる。

マヨネーズが美味しくないことも薄々気づいている。

けれど、現状それしか持ちあわせがないからそうしている。

8mileを見た。ラッパーの自伝らしい。少しだけヒップホップをディグった気になる。

まるで8mile先にパラレルワールドがあるみたいに、平行線上で歯ぎしりをした。

 

現代、着地点はねぇ思想だよ。

前回と違う今回の一番新しい問題の現代美術を勉強しないでまぐれで当たるかどうかを試してる天才の限界。

だってぶっちゃけよくわからないし、日本人だし僕わからない。

今日以前からの興味ねぇ明日を脳に変換してもう観てんだ。

だって僕は君の宗教そのもの、子どもの小言も諸々がどれも戯れ言みたいな腫れ物みたいだ。

大人になっても大人が嫌いさ、歯茎から血が止まらなくなるぐらいにさ。

*6

 

これは8mileごっこの始まりか末路かそれともまだ日の目を見てない未完の物語の最中なのか。時計の秒針は一秒と動かさず、そこで止まってるみたいに、その先は計り知れない。底知れぬ暗闇の正体はエンドロールなのか。ここが終幕なら本当に後味が悪く人間味にあふれた物語なのだと思う。自分の未来のその先をはっきり見ることのできる人間はいない。常識がこの先どうするのかなんて正論をぶつけるのは、お先真っ暗だって言いたいからそういうのか。同じ時間軸の中で、自分だけ先の時間にいるから、先人としてそういうのか知らない。

ロールプレイングじゃない登場人物でもない、叩いたキーボードの分だけ進んでいく物語の主人公は自分だとはっきり実感しないといけない。これは空想でも妄想でも無く、本当のことなのだと。

 

Now everybody from the 313

313のやつら

Put your motherfucking hands up and follow me

手を上げて俺についてこい

Everybody from the 313

313のやつら、全員だ

Put your motherfucking hands up

さあ手を上げてくれ

Look,look

こいつを見ろ

Now while he stands tough

こいつは不敵に立っているが

I notice the this man did not have his hands up

手を上げてねぇ仲間じゃねぇ

This free world got you gassed up

フリーワールドはもう限界さ

Now who’s afraid of the big bad wolf

狼を恐れているのはどいつだ

1,2,3 and to the 4

1、2、3、4

1 Pac, 2 Pac, 3 Pac, 4

1パック、2パック、3パック、4

4 Pac, 3 Pac, 2 Pac, 1

4パック、3パック、2パック、1

You’re Pac, he’s Pac, you’re Pacs, none

お前もパック?やつもパック?いや全然2パックでも何でもねぇ。

This guy ain’t no motherfucking MC,

こいつらは最高のMCなんかじゃねぇ

Iknow everything he’s got to say against me

こいつの言う事なんざ、たかが知れてるぜ

I am while, I am a fucking bum

俺はシロ、クソの浮浪者

I do live in a trailer with my mom

お袋と一緒にトレーラー暮らし

My boy Future is an Uncle Tom

フューチャーはアンクルトム

I got a dumb friend named Chedder Bob

俺の友人はチェダーボブ

Who shoots himself in his leg with his own gun

足を銃で撃ち抜くバカ野郎だ

I did get jumped by all 6 of you chumps

お前のとこの輩に殴られた

And Wink did fuck my girl, I'm still standing

俺の女はウィンクに寝取られた

here screaming, "Fuck the free world!"

叫んでやる、フリーワールドはクソだ

Don't ever try to judge me, dude

おい、俺をジャッジしてんじゃねぇ

You don't know what the fuck I've been through

俺の事など分からねぇだろ

But I know something about you

でも、俺にはお前の事が分かるぜ

You went to Cranbrook.

お前の行ってたクランブルック

That's a private school

そいつは上品なプライベートスクール

What's the matter, dawg?

どうした?クロ

You embarrassed?

恥ずかしいのか?

This guy's a gangster?

ていうかお前ギャングスタか?

His real name's Clarence

どうなんだよ、クラレンスくん

And Clarence lives at home with both parents

クラレンスくんは両親と一緒に暮らし

And Clarence's parents have a good marriage

彼の両親は仲良しこよし

This guy don't wanna battle, he's shock

おい、どうした戦意喪失かバトルなんかすんじゃねぇ

'Cause ain't no such thing as haif-way crooks!

あいつは口だけ番長さ

He's scared to death

あいつは死ぬのが怖いんだと

He's scared to look

見てみろあいつはビビってる

In his fucking yearbook

あいつのクソアルバム

Fuck Cranbrook

クソクランブルック

Fuck a beat, I go a capella

クソビート、ビート無しでも構わねぇ

 

Fuck a Papa Doc

クソパパドク

fuck a clock,

クソ制限時間

fuck a trailer,

クソトレーラー

fuck everybody

はっきりいって全部クソだ

Fuck y'all if you doubt me  

俺を疑うなら全員クソだ

I'm a piece of fucking white trash,

俺はクソのホワイトトラッシュ

I say it proudly

俺は不敵にそういうだろう

And fuck this battle,

ついでに、このバトルもクソだ

I don't wanna win,I outty

勝てなくていい、勝手にしやがれ

Here, tell these people something

お前らに言いたい事なんかねぇよ

they don't know about me.

あとは好きにやってくれ

*7

 

8mileは盛り上がりのピークに達している。ラビットはバトル相手にお礼参りしていた。

この映画は最初から最後まで全部見ないと、このピークを共感できない。

UMBに毎年行く人と、たまに行く人では、バトルへの共感は全然違うのと同じように。

純粋なスキル以前のバイブスは、ラビットの生き様が生むものだからだ。

それを追体験してから、このバトルに到達できるのは、特等席でバトルを見ているようなものだった。どうやっても、10:0で、バトル相手に勝ち目は無い。この物語の主人公はラビットだ。

私がラビットだったら、主人公になれるだろうか。数ある登場人物を差し置いて、主人公になれるだろうか。様々な計算を繰り返しながら、答えが実を結ばないことを気づく。

8mileが教えてくれたのはヒップホップの天才が勝つ方法だ。これを真似して主人公になれるのは、エミネムエミネムと同じくらいの天才だけなのだ。

 

さっき初めて会った君はどうして僕なんかにスピーチを頼んだんだ。

社会的に地に足が付いてないとテーブルクロス引きは盛り上がらない。

ケーキもワインも愛もカレーうどんもひっくり返らない。

たかだか一回聞いたぐらいで意味がわかる結婚式の祝辞をする気なんて僕には最初からないんだよ。

*8

 

そんなリリックが頭をよぎった。

人生は計算通りにいかない。8に8をかけても15足りない。あの計算式を見る限り、エミネムよりも7mile近くずれている。そんなラッパーが書いた言葉に耳を貸した。なおも、カブトムシにマヨネーズをかけ続ける自分が主人公になれる方法を探そうとする。エミネムとの埋まらない距離を見て、エミネムを差し置いて主人公になれる物語を最初から書き直している。ヒップホップの王道とは程遠い物語を言葉を借りて始めるなら、こう書き出せばいいんじゃないかと一言書いてみる。

 

弱い人の味方じゃなくて強すぎる人の敵になりたい

*9

 

リンク

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twitter.com

 

*1:ハハノシキュウ「ヴェルトシュメルツ」より「カブトムシにマヨネーズ/The Art」

*2:ハハノシキュウ「エログロ」より「エログロ」

*3:「8mile」よりセリフ引用

*4:ハハノシキュウ「ヴェルトシュメルツ」より「東京/Tokyo」

*5:DJ6月 「サッカー部を皆殺しに(feat.ハハノシキュウ)」

*6:ハハノシキュウ「ヴェルトシュメルツ」より「カブトムシにマヨネーズ」

*7:「8mile」よりセリフ引用

*8:ハハノシキュウ「ヴェルトシュメルツ」より「さっき初めて会った人の結婚式の祝辞/MC Battle」

*9:ハハノシキュウ「パーフェクトブルー」より「リップクリームを絶対になくさない方法/too young(remix)」

EnergyDrinkとショーン・オブ・ザ・デッド

なんでライブ見に行く時に限って雨降ってるんだろう。台風の時もあったなぁ。

小さな不幸がついて回るみたいで、それは、私の影にでも潜んでいるのかもしれない。

そうして、その影に潜む怪物がきまぐれで足を引っ張っては段差も何もない道で私をつまずかせて、ため息をつかせる。

説明のつかない不愉快な現象を全部ありもしない影の怪物に擦り付けてなんとなく気を紛らわせているのかもしれない。それにもう少しユーモアを持たせるなら、そいつは厄介で憎めない妖怪なのか、単純にゾンビなのではないかと思うことにしている。

そんな私にほんとぴったりの映画があるのだが、「ショーン・オブ・ザ・デッド」を見たことがあるだろうか。

主人公は冴えない家電販売員のショーン、彼女のリズとデートしても、記念日に場末の飲み屋ウィンチェスターへ何故か無職のルームメイトのエドも一緒に連れていくような男である。職場では高校生になめられ、立ち姿からなんとなく情けなさを感じる。そして、彼女には別れ話を持ち出される。そんな男の日常がゾンビのいる世界へと変貌してしまうのだ。まるでいつも飲んでいたコーラがエナジードリンクに変わったみたいに。

 

 

ああだこうだ言われたって俺はこうだ
高級料理よりドミノピザにコーラ
だって俺ら団地育ちの不良やん
やりたいことやってない奴が異常者
シャンパンに花火 おしゃれなヤンキー
ファッションなんてノリ 女の子大好き
世間の目なんてどうだっていい
仲間が見てるし降参できん

 

 

エナジードリンク”と言ったらこの曲が頭をかすめる。なんだかよくMCバトルのビートで聞いた覚えがあるからだろうか、一回聞いたら頭に残ってしまう。そして、自分がヒップホップを聞いていることに対して違和感を実感してしまう曲だったりする。

自分自身ほとんどショーンと変わらない日常だからだろうか。職場で責任者に理不尽に注意され、ほかの従業員から、ただのいい人だと思われてそうだ。そして、そんなショーンみたいなやつはフロアの端っこで棒立ちでフロアの亡霊のように佇んでMCバトルを見ている。違和感を感じないほうがおかしいかもしれない。

ANARCHYは、ただのいい人ではない。当たり前だけど、リリックに、にじみ出ている。

ヒップホップでいうところのリアルは、私にとってはゾンビが発生している世界のように稀有な状態だったりする。自分に語れるリアルはそういう事に掠めもしないからだ。これなら、元々治安の悪い街で店長を経験していたと武勇伝を語る後輩従業員の方がヒップホップらしかったりしてなんて思う。私のゾンビは私の影にいて、足をつまずかせるためだけにいる。つまずいた先、ふざけてドヤ街を歩いてみたなんてドヤ顔で塀の向こう側のリアルを見る程度、その程度のリアルでしか無い。きっとANARCHYなら百鬼夜行を鉄パイプで蹴散らして、三千世界の王にでも君臨できそうだなどと思ったりする。

 

だから、エドとショーンが自宅で仲良く深夜にエレクトロを大音量で流してスクラッチしながらふざけている週末から世界の終末が訪れるところを見て、虚構なのに少し羨ましがったりするのかもしれない。

ショーンのルームメイトのエドは、世界が平和でも、どうしようもない奴だ。空気が読めないし、いつもだらしない。それでもショーンは面白いしいい奴なんだとかばうから、態度を改めるつもりもない。ショーンはエドがいるからふざけていられるのだと思う。それは楽しい時間なのだろうと思う。だけれど、エドがいると、終末が訪れても、馬鹿げた計画を立ててしまうし、実行してしまうのだ。

 

 

“ピートの車で母親の家に行き、ゾンビ化した義父を始末して、母親を救出し、リズの家に行って、リズを救い出し、事態が収拾して助けが来るのを、ウィンチェスターで冷たいビールを飲みながらみんなで待つ。”

 

 

ピートもルームメイトだが、既に彼はゾンビになっている。そして、彼がゾンビになったことでツッコミ不在になってしまったのだ。ピートは深夜の大音量に怒って、エレクトロのレコードを窓の外に投げるような奴だった。ピートのゾンビ化とともに、彼らから投げ捨てられたのは常識だったのかもしれない。もう、誰も彼らを止める人はいないのだ。

 

 

気分がいい分 町もユニーク
ギャルも振り向く ジャパニーズドリーム
自分らしく生きる 着たい服着る
タトゥーにグリル ハイチーズ
シャンパン飲むダチ お金使いすぎ
稼ぐだけ毎月 馬鹿騒ぎ大好き
世間の目なんてどうだっていい
仲間が見てるし降参できん

 

 

なんとなく思う。エドは私にとってはヒップホップそのものに等しいかもしれない。唯一常識を忘れて、客観的に見たら馬鹿げた計画を普通にできてしまえるものだから。

ANARCHYのEnergyDrinkもヒップホップのひとつだ。そして、これを全部飲み干せるほど体力が無いのが私で、全部飲むころにはいつも胸やけを起こす。

どちらかといえば飽き性で諦めがちな性格だと自負しているが、これを飲むとなんとなくやり切れる気がしてきて、頑張ることはできる。しかし、自分がリアルで無いせいなのか、反動でよくわからない自己嫌悪にとらわれてしまったりする。胸やけしているんだと思う。

じゃあ、リアルになればいいのでは?と言う人もいる。逆に聞きたいのだけど、お前はできるのかと。しがないレジ打ちが急に不良にはなれない。まして、年齢を重ねるごとに、不良になどなれはしない。すでに、不良が改心するような年齢に差し掛かっているからだ。

でも実は、ひとつはぐらかしている事がある。

ANARCHYが言う“自分らしく生きる”“やりたいことやってない奴が異常者”というリリックは別に私にでも刺さるからだ。そう、その辺の事を言われると、“うっ”と、うめき声をあげてしまいそうになる。

 

ショーンは高校生のノエルにこう言われていた。

 

“ノエル、仕事中は携帯を切れ”

“はいはい、わかりました。おじいちゃん”

“おい、俺は29だぞ。君はいくつだ?20か21か?”

“17だよ”

“そうか…仕事が嫌なのはわかる。俺だってここにいたくはない。ほかにやることがあるし…”

“いつやるの?”

“……”

 

 

きっとショーンがこの時点でANARCHYだったなら、ノエルはボコボコになっているのだろうか。そうでなくても、なめられることはないと思う。

ショーンにとって良かったことは、エドがいて、終末がやってきたことだ。そして、そこで、土壇場になって出したやる気で馬鹿みたいに思える計画をなんとか実行してしまえたのは、胸焼けせずエナジードリンクを飲み干せたからだと私は思っているし、それは、この笑えるゾンビ映画の中では一番学んだことだったりする。

 

 

まだ眠れない 楽しいなこの国
今ならビルからビル飛べる気がしてくる
信じた君だけにミラク
大笑いした人たち後になって気が付く
楽しむこともっと頑張ろう
だって遊ぶことも仕事なんだもん
明日も楽しめること探そう

 

リリックの終わりにあるこの言葉は割と好きだったりする。自己否定の権化のような自分にとってまったくかけ離れた言葉なのだけれど、何より自分らしく生きることの本質な気がしてくる。何故かといえば、いまの生き方楽しいですか?と問われているように思うからだ。

 

コメディ映画の中の冴えない男に自分と同じ影を感じながら、私は影に潜む厄介で憎めない妖怪なのかゾンビなのかわからないものについて、エナジードリンクを胸焼けして飲みながら、思いを巡らせる。

足を引っ張っられてつまずいているんじゃなくて、自分らしく生きる方に転ばせたいんじゃないだろうかと。

 

たまには、物事を後ろ向きに考えず信じてみてもいいのかもしれない。

降り続く大雨が少し小雨になった気がした。

 

引用

ANARCHY「EnergyDrink」より歌詞引用

ANARCHY(アナーキー) OFFICIAL WEBSITE (avex.jp)

 

ショーン・オブ・ザ・デッド」よりセリフ引用

ショーン・オブ・ザ・デッド (字幕版)

小名浜 と スタンド・バイ・ミー

私は昔から駅のホームが嫌いだった。
特に急行が通り過ぎる時の轟音と風が顔に直撃する瞬間が怖かった。
そして、ホームを覗き込むと線路のちょっと先にある大きなトンネルが怖かった。
先が見えないほど暗く、それがとてつもなく怖かった。けど、気になって覗てみたり、わざと電車の近くに行ってみたりしたのだ。
だが、今はそれが怖くなくなってしまった。
駅にはホーム柵が出来て、その先にある恐怖みたいなものが隠されてしまったからだ。
私がリアルさを求めてヒップホップを聞いてるときそんな昔のことが思い出される。
この柵の向こう側にあったものを怖いもの見たさで覗き込むような感じと似ている気がしたからだ。
私のリアルを、自分よりハードな過去を持った人間の横に並べても、全然見合わない。実際に小説を書いて本にしている人に対して、「私も小説書いてるんです」と、横に並べる勇気を私は持っていない。
ヒップホップを聞いてるときそんな気持ちになってしまうと、聞いてること自体が悪いような気持ちになる。なんとなく場違いさを心に抱くからだろうか。
それでも覗き込みたくなってしまう。柵の向こう側にあるものを、何故か探してしまいたくなるみたいに。
絶対に交わらない人生を、柵の向こう側から見ている。
スタンド・バイ・ミー」のようだ。好奇心が歩かせる足が行く先を線路は知らないみたいで、時には道を外れて、獣道にぶつかったりする。

”なぜ死体を見たいのかよくわからなかった”
”だがたとえ一人でも私は行くつもりだった”


主人公のゴーディが仲間たちと探していたのは死体だ。
冒険の始まりはちょっとした好奇心からだった。
友達四人のひと夏の冒険を描きながらも死体探しという不穏な響きをはらんで、道を少しずつ外していくみたいだ。
けれどもゴーディはいつの間にか、それを求めるみたいに森の中を進んでいた。
小学生と死体。同じくらい私とヒップホップは不釣り合いな気がする。そのなかでも最も自分から遠くかけ離れているようなヒップホップは悲壮なリアルの描かれているような音楽のことだと思う。

部落育ち 団地の鍵っ子 駄菓子屋集合 近所のガキんちょ
ヤクザの倅か母子家庭 親父がいたのも七つの歳まで
二歳の妹がいようと死のうとするお袋に
「帰ろうよ。僕が守るから大丈夫」
光るタンカー埠頭の解放区


ひと夏の冒険を、楽しみながら、それを片隅では自分が不謹慎だなんて主人公のゴーディは思っていた。はじめてこの曲を聴いたときは好奇心で曲を聴いている。だから私もゴーディみたいな気持ちだと思った。映画を見るような観光気分で立ち入ってしまうと、自分の場違いさを思い知ってしまって、その心持でいることに少し後悔する。
最初は観光のつもりで聞いていたからか、路地を曲がったら、全然違う街の風景と出会ってしまって、その匂いが消えず残ってしまうような気持ちになる。
しかし、聴き続けると、いつの間にか当事者感覚になってリアルを何処かで平然と受け止めてしまえるようになってくる。路地の匂いは自分のものではないにも関わらず、不思議な共感を生む。起伏の無い平らな世界線を跨ぐような気持ちでしか感じられない日常の中に、どこか同じものを求めている。
小さな街から4人の男の子が冒険に行くみたいなそんな跳ね上がる気持ちとは裏腹に、曲中、綴られた言葉はアスファルトのように一度こびり付くと、ちょっとや、そっとじゃ落とせない。或いは、煮えたぎったアスファルトがグツグツしてるのを覗いてるときの背筋がゾクッとするような気持ちを思い出す。そこに手を突っ込んだらどうなってしまうんだろうだなんて怖いもの見たさな気持ちも少しある。
私が探しているものは何なんだろうか。何かあるような気がして、聴き進める。

中学卒業も更生院
数年後には準構成員
旅打ちはまるで小名浜のカモメ
行ったり来たりが歩幅なのかもね
くじけた背中を洗うソープ嬢
泡と流す殺気立つ毒を
小名浜港は油で濁す
必要悪があくまで美徳


リリックを聞き進めるごとに、侘しさを感じてしまう。
道を外れて、順当に悪に染まっていくように年を重ねていく。
どこか救われなさを感じながらも”必要悪”という言葉に自分にとっても、社会にとっても存在していいというような願いを感じてしまう。

ひと夏の冒険。子供達の好奇心に満ち溢れていたが、冒険を通じて見たものは楽しさとは少し違うように映る。
4人の少年たちはそれぞれに抱えた家庭の問題と隣り合わせに冒険をしている。死体探しはそれぞれの問題と向き合う形で進んでいく。いざ、その現実と向き合ったとき、彼らはどうなっただろうか。

「ぼくと進学組に入ろう」
「ありえないね」
「君は勉強できる」
「無理だ」
「どうして?」
「みんな家庭で判断するからさ、僕は家庭が悪い」
「間違ってる」
「その通りさ、給食の金の時も何も聞かれなかった。いきなり停学さ。」
「盗ったのか?」
「盗ったさ、知ってるだろう。テディも知ってる。みんな知ってる。バーンですら。でも返そうとしたかも。」
「返そうとしたのか?」
「かもな、かもだ…じつはサイモン先生に返しに行ったかも。
でも金は出てこず、ぼくは停学だ。翌週サイモン先生は新しいスカートを」
「茶色の水玉のやつだ!」
「ぼくが盗った給食代をサイモン先生が盗った。それをぼくが言ってもアイボールの弟のクリスをだれが信じる?これが金持ちの子のした事なら先生は同じことをするか」
「しない」
「でもぼくは…先生はスカートが欲しかったんだ。ぼくがチャンスを作った。返そうなんてバカだった。でも、まさか…まさか先生があんな事を…もういいさ。ただ、だれも、ぼくを知らない土地へ行きたい。おれ女々しいよな…」


これは森の中で夜の番をするゴーディとクリスの会話だ。クリスの家庭は信用が無い。夜、冒険の合間だったから、街を離れた森の中だったから、友人に感情を吐露したのかもしれない。
普段のクリスの強さとは正反対の感情をここで見ることになる。
クリスにも居場所がなかったのかもしれない。

夜の森を過ごすみたいに、小名浜のリリックを聴いているのだとしたら、私が探しているのは救われない現実なんじゃなかろうかと思う。
鬼のアルバムに「火宅の人」と名を冠するものがある。火宅の意味はこの現実だ。
燃え盛る家の上に私達は生きていて、抜け出す事なんて出来ないんじゃないかと思ってしまう。自分のことを振り返ってみる。現実に向き合うと自分はなかなかに怠惰だと思う。生きる事に振り回されて人生を生き埋めにしていて、既に何か手放してるような気がする。これを書くにしたって何かを言い訳に手を止めていた。もう長いことずっと訪れなかった店に、急に必要だからと訪れてもそこにはもう誰もいない。自分を責めても返って来ないものもある。
リリックを追っていると考えてしまうのは、人生の影だ。その影は過去を色濃く反映してしまう。
過去に善悪で単純な価値を見出すのは出来ない。ただ、そこに存在していてる過去は今を作っている。そして今に対してみな居場所を求めていたんだと私は思った。

「ぼくは役立たずだ。パパ言ってた。」
「パパは知らない。」
「嫌ってる。」
「違うよ。」
「パパはぼくを…」
「君を知らないんだ」
「パパはぼくを嫌ってる。ぼくが嫌いなんだよ。」
「…君はきっと大作家になるよ。書く材料に困ったら、ぼくらの事を書け。」
「きっとすぐ困るね。」


死体という現実を目の当たりにして、ゴーディは現実と向き合った。ゴーディは優秀だった兄の後ろで、自分の存在を確かめたかった。もうその兄はいないのに有り続けた記憶に苦しめられて、彼の家族が誰も彼も兄を追いかけているように見えて。そこでは自分が役立たずのような気がしていた。ゴーディには話を面白く語れる才能があった。クリスはその才能を知っていた。
森の中でのクリスとゴーディの立場が逆になって、今度はクリスがゴーディを支えた。
自分を必要としてくれる友達がいた事は彼にとって幸運な事だったかもしれない。そこでは彼が存在する事が出来た。

懲役も満期でテンパイ
八郎の病死 オヤジ呟く面会
ナオの受信で知ったオリカサの他界 この塀は高い
独房が妙に暖かい 日差しも美と知る 落葉の赤落ちて
寂しさの中で寂しさが美しいと知る
秋の優しさと赤落ちはいる
昔見た地図 再び睨み 行き交うハスラーの中軸と信じ合う
下らんことでバカ笑い出来る仲間が今も此処にいる それがリアル
続く此処から 江戸の小名浜
渇かぬ鬼の赤い目に 愛が見えませんか?

私が探していたのは本当に救われない現実なんだろうか。
「スタンドバイミー」を思いながら、鬼の「小名浜」を聴いている。好奇心から離れて現実をみて気づいたのは、救われなさだけではない。救われなさを誰かのせいにするのではなく、そこから出ていこうとする気概じゃないだろうか。どれだけの不幸が重なろうとも、無力でも本人の気持ち次第で道の続きは変えていける。

ゴーディは大人になって、少年時代を振り返って物語を綴る。もう、仲間たちはいないのだけれど、心にあり続け、彼に筆を取らせた。まるで、導火線に火をつけるように。
鬼のリリックも火だと思う。リアルを綴るリリックには傷跡を残しながらも、決して下を向いてはいない人間のひたむきさが見える。それは、それを書き綴ることにおいて諦めていないからだと思う。
だから私も探し出した導火線にただ火をつければいいのだと思う。
リリックの最後にこう綴られているように。


小名浜の汽笛を 背に受け 港へ向かえ
小名浜の汽笛を 背に受け 都で歌え
小名浜の汽笛を 背に受け 港へ向かえ
小名浜の汽笛を 背に受け 都で歌え


引用
鬼「小名浜」より歌詞引用
D.O.P.E(Drop Out Project Entertainment)オフィシャルサイト | 鬼


スタンド・バイ・ミー」よりセリフ引用
スタンド・バイ・ミー (字幕版)   

爆発リスクを背負ったラッパー と コラテラル

ここに書くまで何千字、何万字、書き捨てて、前の2ページの記事をやっと書けたなんて言わなければ誰もわからない。
私が天才だったなら、その何千字、何万字をすっとばして、さらに10ページくらい書けているはずなんだと思う。
残念な事に、私は3ページ目を書き始めるのがやっとなのだ。
仕事が忙しいとか、朝早いとか、そういう類の言い訳を差し引いても書くのが遅い気がするので、一体何なんだろうと思う。
根がネガティブな私は前を向くとか自分と向き合うとかそういうポジティブな感情が苦い薬のように見えて仕方ない。
オブラートで包めば飲み込めるんだろうか?
ポジティブは劣等感への処方箋になってくれるんだろうか。
そんなこと考えていながら何となしにインパクトの凄い曲名を見つけたので再生してみた。

マンションにある3千枚の在庫CD
流通会社と実家合わせたら約1万枚
実家の在庫は畑のカラス除けに使用されてるからもう預けない


全く優しくない現実を目の前に引き出されると、どうしたのかと続きを聞いてみたくなってしまう。そんなリリックが冒頭を彩っていた。自嘲気味だけれど、ちょっとだけクスッと笑えるようなリリックだとも思った。頭からネガティブを爆発させている私の気持ちが少し和らぐような気がした。
音楽を聞いている時、私はあんまり論理的にものを考えない。大多数の人は、音楽を客観的には聞かないだろうし、自分の気持ちに届いてる言葉だからこそ耳を傾けるんじゃないかと思う。このリリックが主観的に響いてしまうような私は…多分やっぱネガティブなんじゃなかろうかって思う。

前回から私の映画の一部を持ち出すなら、私の将来が書いてあるフィルムのコマギレを光に当てたら火事になるなんて書いた。

あれは、ネガティブな気持ちで書いてるから、全然良い意味なんて無い。
そもそも光に当てるほどの人生でもなく、こんなことやって感想文書いて、そんなことに時間を使って、資格を持っている訳でもなく、仕事もそのうち出来なくなったら、最後は火の車じゃね?なんて皮肉を込めていた。

実のところ、最初、"爆発リスク"という言葉を見て、きっとこの人は自信があるからそう言うんだと思って聞いていた。
きっと狐火がどんなラッパーか知っていたなら、そうは思わなかっただろう。
だから、次のリリックを聞いたとき、物凄い勘違いをしていたことを思い知った。

ビニールに包まれ、中にプラスチック、歌詞カードの紙
家が火事になったらこのCD達どうなるんだろうか
きっと熱いリリックが込められているから良く燃えるんじゃないか
なんて、うまい事いらない
多分、3千枚も一気に燃えると爆発するんじゃないか
そしたら、俺も一緒に
CDと一緒なら本望だろ
なんて、そんなわけない


CDの巻き添えを食らって本望だなんて言ってみたりする自虐気味なリリックがそこにはあって共感してしまった。
なんとなく、私は「コラテラル」を思い出した。監督はマイケルマンだ。
一番最初に浮かんだのはタクシードライバーのマックスだった。マックスは語る夢こそあれど"リスク"を背負ってない人間だ。マックスの夢はタクシードライバーから卒業してリムジン会社を作る事だが、このリリックとは真逆の人生を歩んでいると思う。私は、マックスにも共感出来てしまう。だから、私はそのちょうど中間にいるのかもしれないと思ったのだ。
私には狐火のように何千枚もの在庫が無い。あったであろう昔の記事はまるで火事にあったかのように跡形もなく消してしまった。結局積み重ねたのは時間だけだ。それは仮の仕事だと言って12年もタクシードライバーを続けてるマックスのようだった。けれど、1ページも書かないで絵空事にしたのでは無い。私に今あるのはたった2ページの"爆発リスク"だ。2ページの爆発リスクと心中したいかって聞かれたら、確かにそれは御免である。
話は変わるが、コラテラルの一番印象に残っている言葉は殺し屋ヴィンセントの言葉だ。
マックスはこの殺し屋をタクシーに乗せてしまったが為に彼の仕事の巻き添えを食ってしまう。今まで"リスク"の背負った事の無かったマックスが彼のせいで"リスク"を背負わされるのだ。けれどマックスは何度も何度も"リスク"から逃げようとする。
そんなマックスにヴィンセントが突きつけた本質の言葉だ。

「鏡を見ろ。清潔な車、リムジン会社の夢、幾ら貯めた?"いつか夢が叶う"と?ある夜目を覚まして気づく。夢は叶う事なく自分が老いた事を。お前は本気でやろうとしてない。記憶の彼方に夢を押しやり、昼間からボーッとテレビを見続ける。リムジンの手付けぐらい払ったらどうだ?あの女への電話は?なぜまだタクシー運転手を?」


狐火のリリックはネガティブに感じてしまうのだけれど、それは弱い人が書いた言葉だからではない。結果論では示せない人生の軌跡がリリックにはある。リスクから逃げようとはせず、真向から鏡を見てリリックを書いている。それは、弱い人には出来ないからだ。むしろ、それは強さである。だから、27歳のリアルでも36歳のリアルでも、人の心を動かせるのは、付け焼き刃の知識ではなく現実と向き合った数だけあるリアルの言葉である。

「僕には出来ません」という言葉をビールとともに何度も飲み込んできた
その先に後悔なんて一度もなかった
だから、乾杯の度にビールにも感謝する

36才、この才は歳と共に積み重ねた才能の数
全く自信のなかった自分を信じた数
いつか去ってった背中を振り向かす


これは36歳のリアルからの引用だが、36年の月日数を重ね、信じた数だけある才能の数が生み出したのが3千枚の在庫なんじゃないかと思うと、その言葉を信じて見てもいいと思えた。そして、何よりその才がただ歳を重ねただけでは通常は生み出せないものだとも知る。リスクを背負うことなく日常を繰り返しているだけでは才は積み重ならず、ずっとそのままだからだ。

マックスはまだ救われている。ヴィンセントに指摘されたからだ。誰も向き合おうとする人がいなければ、鏡を見ることもしないし、自分の過ちに気付く術も無い。

本物のヒップホップが何かはわからない
ドリンクバーを取りに行く足取りで出社して
ドリンクバーをおかわりする感覚で残業している
ネクタイの長さが気になりながら一日を過ごす
自分には到底分からないのかも
でも、誰に否定されようが
何かを信じる事だとも思う

本物のヒップホップに命のリスクが重宝されるなら
オレは爆発リスクを背負ったラッパー
父親は刑務所あがり 母親は薬中じゃない二人とも普通の人
でも普通なのに自分達が行けなかったからって
頭の悪いオレを信じ大学まで出してくれた
オレの中の最高のヒップホップ

誰にでも色あせない思い出があって、心の中にしまっているみたいに、CDケースの中には思い出という火薬が詰められている。
この曲のリリックの中で、一番、狐火らしさを感じたところを書き出してみる。ヒップホップらしさというのが、私もなんなのか分からない。どうやったら手に入るのかも分からない。
仕事が忙しいとか、朝が早いとかそんな事に翻弄されてるけど、それが人生なんだけど…本物のヒップホップならという言葉にも翻弄され、自分を肯定していいのかもわからなくなる。だから、自虐気味に結末をどうせ火事にでもなってしまえなんて思ったのだけど、どうせ背負うなら、狐火みたいな爆発リスクの背負い方をしたいななんて思った。私の中のマックスは火事の巻き添えになるくらいなら、他人を巻き添えにするような爆発を起こせたら良いのになと思った。だったらと…タクシーのアクセルを思い切り踏み込んで走り出したいと思った。

ポジティブが善 ネガティブが悪
ならビジネスポジティブのオレは偽善
虎の威を借る狐のごとし
これは爆発のリスク 思い出の数が
キレイに彩る 虹色の狼煙
完成度は最高の3千枚の在庫
という爆発リスクを背負ったラッパー

引用

狐火「爆発リスクを背負ったラッパー」より歌詞引用

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コラテラル」よりセリフ引用
コラテラル (字幕版)

ブッダの休日 と ニュー・シネマ・パラダイス

空を駆けてくような気持ち良さ 
身体いっぱい浴びる御日様の
陽溜まりの中今を生きる
自分のリズムつかみ風を吹かす
空を駆けてくような気持ち良さ
身体いっぱい浴びる御日様の
心地好く差し込む日溜まりの中
自然のリズム掴み 俺ら行くのさ

 

忙しい1週間の中の唯一の娯楽は休日だ。毎朝のMORNING RUSHを越えた先、自分のペースで進める事の出来る一日、出来るなら至高の時間にしたいと誰もが考えるはずだ。通勤時間に聞く音楽と、休み時間に聞く音楽は全然違うように聞こえる。仕事に行くのに聞く音楽は自分を確かめる為に聞くのだけど、気の張らないリラックスした時間に聞く音楽は自分を楽しむ為に聞く。
そんな休日に「ブッダの休日」を聞くことにした。この前から日本語ラップに興味を持った私は、にわかなりにブックオフで名盤と言われる日本語ラップのCDを探して来たのだ。(なんかネットで買うよりアナログってかっこいいじゃんか。)
いつもの休日は映画鑑賞だった。
いつか見ていたのは、「ニュー・シネマ・パラダイス」だった。
小さな映画館のノスタルジーに似たものがこの曲の中に込められているような気がした。
一歩電車から降りてみれば、都会の騒音が耳を席巻する。そんな煩さから抜け出して、自然の中に吸い込まれていく。私にとっては、つかの間、映画を見ている時間に似ていたかもしれない。楽しい時間だ。
ブッダの休日」を聞いていると、現実がずっと病める世界なんじゃないかと感じてしまう。自分がいる場所から抜け出して、一歩出て都会へ行く事、それが繰り返しになると、少し小さい箱から大きな箱へ乗り換えただけなんじゃないかと思ってしまったりする。代わり映えが無いようなそんな毎日が続く。それは、キスシーンをカットされ続け映写される恋愛映画のようだった。公序良俗の規律だけ正しく守られ映される映画。その繰り返しに対して、私はそれを受け止めるだけになっているんじゃないだろうか。「ブッダの休日」のリリックからはところどころ、現実の暗がりが見える時がある。リリックの陽だまりの明るさ故にその暗さも並んで見える。
ブッダの休日を聞きながら、「ニュー・シネマ・パラダイス」の名言を思い出した。
 
「自分のすることを愛せ。子供の時、映写室を愛したように」
 
これは、映画技師のアルフレードが青年となった主人公トトに向けた名言である。
BUDDHA BRANDと「ニュー・シネマ・パラダイス」に共通点があるとすれば、その愛についてだと思う。そのリリックはヒップホップとillな表現力への愛で出来ていると思う。
 
一丁ラー 決め込み 雲の上に乗り
究極の快楽求め 旅に出る
どこへ行くかは自分で決める
注意事項 周りにはめられないよ
ストレス解消 めぐるめぐる瞑想
気分爽快な乗物
流星パイロット 自由飛行 青天井

 

BUDDHA BRANDのリリックはどことなく怪奇な雰囲気が漂っていて、その正体不明さがどこまでもillmaticに作品を彩っている
このCQのバースは結構気に入っている。決して煙に巻けない現実があるからこそ"自由"という言葉が際立つリリックに自分を重ねて見るとふと思う。
別に、自堕落に何もやりたくないのでは無いのだけど、なかなか前に進めない。何かになりたい希望、誰しも抱きそうな理想を持って前に進もうとするのだけれど、その目的地が見えなくて、一体何を選択すべきか分からなくなる。何かを失くしてしまっている。
そんなとき"休日"が必要なんだと思う。
「MORNING RUSH 」が 毎日を戦う為に日常を前向きに自分を見出す曲なら、「ブッダの休日」は、毎日の戦いに備える為に、休日を楽しんで自分を見出す曲かもしれない。
 
いつも嗅げない匂いに気付く
普段見えないものまで見える
都会じゃ聞こえない音が聞こえる
見失った自分を取り戻す

 

DEV LARGECQNIPPS、三つ巴の言葉はこう告げる…一服の煙に揺られながら、リラックスした雰囲気のなか、気持ちが開放されるような、ゆったりとしたビートの上に乗ったリリックは、ノスタルジーを伴って、いつの間にか無くしてしまったものを取り戻せるような気持ちにさせる。
それでも、代わり映えのしない恋愛映画が映写され続けた。カットされたフィルムの行方は一体どこだろうか。エンドロールの見えない映像は病める世界の如く繰り返す。見たいと思えど見つからないそれこそ失くしてしまったものかもしれない。エンドロールに届かない繰り返しが続くが、それは終着点をカットされているからだ。自分からゴールを見つけなければ、この映画は終わらせる事が出来ないのだ。それに気づいたとき、カットされたフィルムの行方を知る。
自分が主人公の映画なら、自分はどうなりたいだろうか。映画の主人公が映写室を出て映画監督になった。そうなれたからこそ、エンドロールが見れた。誰も読まないような感想文の先、私だったら…。
何となく分かってても書きたくないので、一人で将来を思って、私だけでカットされたフィルムのコマギレを光にかざしたら、燃えて火事になってしまいそうだ。
それでも、目的が見い出せたなら、明日へ進むだけだ。私のエンドロールはまだ先にあるみたいだ。
 
自然のリズムのシャボン玉に乗り
生きる喜び再認識
光り輝く未来へ向かって
明日も頑張れ お前
Have a nice day お前 明日も頑張れ

 

映画が終わるかのように「ブッダの休日」も終わりへ向かう。小さな映画館のノスタルジーを詰め込んだような休日は、失ったものを取り戻させたかもしれない。
自分のする事を愛せるからこそ、毎日は輝き、休日は素晴らしい時間になるのだとしたら、今日はいい日だったかもしれない。
この感想文をちゃんと書けたことが、私が私のする事を愛せた証拠であると思うからだ。そして、一歩だけ私の映画は進んだかもしれない
 
 
引用
BUDDHA BRANDブッダの休日」より歌詞引用
 
ニュー・シネマ・パラダイス」よりセリフ引用

MORNING RUSH と ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

朝になって仕事に向かわないといけない。
同じような毎日が流れてくる。
私が向かおうとしている場所、私がしようとしている事、それは何か結果を伴って進んでいるんだろうか。
何万回と回る時計の針がゴールを知らないように、思考が堂々巡りする。
人生を走り続ける事になんの意味があるんだろうか?
何か、意味を見出して見たくなって、スマホから音楽を流してみた。
 
朝の5分はもう憂鬱だ 電車も窮屈だ 
けど 洗面台の鏡が 最高の僕ら 映した
 
そう、私に囁いたリリックがあるこの曲の名前は「MORNING RUSH」だ。
私は朝だから憂鬱なのかもしれない。
これが一日の終わりに近づけば、朝の憂鬱は杞憂に終わって、人生の意味について考えてしまった事を忘れている気がする。
時計の針と同じようにずっと同じ場所を何度も通ってるなんてことを忘れる…。

けれど、今日は何だかそれがいけない事のような気がして私は、リリックにあるように鏡に自分を映して見ようかと思った。その鏡の名前は「ものすごくうるさくて、ありえないほど近いだ。

私は堂々巡りの一日に気を病むと時折映画を見ることにしている。そうすると時計の制約から逃れられるような気がするからかもしれない。
今日のこの感想文は、その映画越しに音楽を聞いてみようとふと思ったから始めたのだ。だから、今日の私は主人公のオスカーと一緒にある。
オスカーが探しているのは、父の遺品の鍵の鍵穴だ。封筒にあった"ブラック"のヒントを元にそれを探そうとしている。それが見つかればオスカーは父親に近づける気がしている。オスカーは"ブラック"と名のつく人達に片っ端から、話して聞いて回っていった。オスカーはこう言った。
 
問題は単純だった
"この鍵の鍵穴を探す"
僕はその攻略法を考えた
その問題を徹底的に分析し
巨大な方程式の一つの数字として
一人一人を考えた
 
でも失敗だった
人は数字ではなく文字みたいだからだ
その文字は物語となって
 
誰かに聞いてもらいたがる
"ブラック"一人につき6分の予定だったけど
毎回必ず長引いた
 
誰もが僕の予定よりも長く
パパのことで僕を慰めようとした
自分の話をしたがった
僕は慰めも友達も要らなかった
鍵穴さえ見つかれば
 
僕はパパに近づけず
失いかけてた

 

結果の伴わない日常とオスカーの言葉が重なる気がする。鍵穴さえ見つかれば…その答えを探しているのに、到達しない苦しみと焦燥感の狭間で息をしているのだ。
そんな事を思い返しながら、MORNING RUSHを聞いていた。思っている事とは対象的にずっとずっと明るい曲だと思う。
次の一歩が踏み出せなくなってしまったと感じていたからそう思ったのかもしれない。
 
wake up 起きてまだ布団の中  
携帯もぞもぞといじりながら 
限界がくるもう数歩前  
「でもやるんだ」って決めたのはずっと前 

 

これはfeaturingのKEN THE 390のリリックだ。なんとなく現状に刺さるリリックに耳を傾けてしまう。そもそもこの曲が収録されているのは「社会人」という名前のアルバムである。社会に生きる人々に対して、背中を押すようなリリックが多いアルバムだ。「社会人」と聞いて、大学四年生が正社員として送り出されることが社会人だという前提の言葉で話す大学のOBの祝辞を聞いて、はっきりと"関係無い話だ"と思った私にとっては、これも"関係無い"ことだろうと思ってしまったことがある。それなら、なんとなく社会から疎外されてる人なんじゃないかと自分は思ってしまうからだ。けれど、その中に込められているリリックはそんな狭窄した視野で語られる事は無く、社会の中で生きる人へ向けられている。
多分、結果が伴わないのは今まで結果を求めていなかったからなのかもしれない。
このリリックを聞いて思ったのはそれだった。やるんだと決めてやろうとした事、何をやろうとしてるのか自分の中に無かった事を思い知らされた。
だとしたら、オスカーは私よりもずっと先を歩いている。オスカーにも取り残されそうな私は結果を求めないと答えなど到底掴めないと気づいてしまった。
 
ベッドから出れば歓迎する sunrise 
スマホのアラームの歓声「おはよう」 
理想の気分 なりたい自分  
神様はそんな僕らにギフト ギヴン「thank you」

 

理想の自分って一体何なんだろうと考えてしまう。オスカーは鍵穴の向こう側に父親を探した。それは自分が出来なかった事への埋め合わせのようにそれこそ必死に探していた。この感想文の登場人物は私以外、全員前向きだ。夢や理想を形にする為の努力をしているのだ。
一つだけ私がやっている事があるのなら、こうやって文章を書き連ねている事だと思う。思っている事を文章にする事で形にしているこの吐き出した感情の塊が何かになるとは到底思わないようにしていたかもしれない。例えば、批評家になりたいんだとか…。具体的なそれに名前をつけることを避けていた。
 
[DOTAMA] 
床に散らかった背広 将来の計画  
ここに残し思い思い step up  
何時だろうと朝は眠いけれど  
夢と明日を見てる anytime 
 
[KEN THE 390] 
そりゃ誰でも生きてりゃあるだろ error 
まぁそりゃ確かにないほうがいい better 
でも無理やっぱこれでもう 何度目か 
昔の方が もっとちゃんとしてた??

 

オスカーは調査をするたび、自分の苦手なものと戦った。橋や街の騒音や電車。鍵穴に近づけなくても、訪ねた人達から得たものはオスカーにとって大切なものだ。
私はオスカーになれたなら、前向きに生きられるかもしれない。
 
私がオスカーだったなら、音楽のところへ
訪ねては鍵を持って歩くんだろうか?私の持つ鍵の鍵穴を知っているか?と聞きまわりながら。私は鍵穴の向こう側に自分の夢があると信じる。
 
"ものすごくうるさくて、ありえないほど近い"あれはオスカーの調査記録のタイトルでもある。つまり、具体的に名前をつけられない何かを追っても、記録は出来るのだ。
 
私が、答えを探そうと、問い続ける事が出来るなら、記録が出来るように。
 
だとしたら、私の人生は堂々巡りでは無いし、毎日が違うのでは無いだろうか。
 
そんな事を考えていたら、MORNING RUSHに相応しく、私も出勤する時間になっている。この曲は繰り返し、フックでこう言っていた。
 
we got something. this morning rush 
i love sunshine in this world 
we got something. this morning rush welcome to new dimension 

 

このフックは、一番この曲の中で前向きな言葉だと思う。

日々を乗り越えていけるからこそ、何かを得て明日に向かっていける。
オスカーが鍵穴になかなか近づけなかったように、私もなかなか夢には近づけないだろう。けれど、毎日を生きる度に、知らずとも何かを得ているのだと気づけたら、同じだと思ってしまう日常ごと愛せるのかもしれない。
これから、仕事に行く私の背中を押してくれたような気がした。
 
 
 
引用
DOTAMA「MORNING RUSH」より歌詞を引用